「美しい建築」を定義付けるとすれば、それはどういう考え方に帰結するでしょう。
「美しい建築」について考える前にそもそも建築を構成する要素は、「構造」、「設備」、「意匠」と一般的に言われています。そこから一つずつ振り返ってみたいと思います。
「設備」は機械モノです。すなわち経年変化も起こしますし、技術改良もなされます。技術改良された商品が出回った頃には古い設備は非常に見劣りするし、実際使いにくい気にもなってきます。一般家電品であれば「買い換え」がそこでは起きますが建築にくっついた設備はそれが出来ません。そういう意味でいうと設備に対して建築はフレクシブルであるべきと思います。将来どういう設備が出来るか?何て事は誰も予想が出来ない訳ですが、設備計画に押されまくった建築計画、これはいただけないなと思います。最新の設備はあくまでその時点で最新であるべきであって、時代の変化とともに自らを交換改良出来る様な軽いスタンスであるべきです。
次に「意匠」。私はデザインという言葉は好きですが、「意匠」という言葉はどうも好きになれません。何か表層にモノを取り付けた様な感覚になります。こと建築に関して。建築で言うデザインは広義の意味でその組立方、考え方に基づき「構成」をしている様な響きを持ちますが、「意匠」というと表層にある皮の様なものの扱いの様な気がしてなりません。「設備的にはいいのですが、意匠的にはどうですか?」という質問がこの業界ではよく聞かれます。裏返せば「設備の機能を満たす上で、こういう機械が顔を出しますが、こんなモノ見えたら困るでしょう?」と、聞いている訳です。すなわち、ここでは見えたら困るものがあるのでそれを意匠で隠してる、という事になるわけです。この辺が試作に試作を重ね、何回も検討している工業製品と建築は異なります。「しゃあない、今回はこれでいいや」の連続です。すなわちデザインがされていないのです。デザインという言葉の持つshape
upしていく様な感覚がどうも建築には感じられません。その元が自分では「意匠」という言葉に思えてなりません。
「最も好きな工業製品は何ですか?」と聞かれれば迷わず「拳銃」と答えます。で、なければ戦闘機、戦車、バイクといった本当に必要な機能だけで組み立てられ、少なくとも「意匠的にどうかね?」などといった低次元の議論などあり得なく、ひたすら使い、機能し、肉を削いでいった究極の形状がそこにはあると思います。その行為こそが自分はデザインだと思っています。そこには「意匠」などといったものはありません。
もう一つ、「意匠」に関して。構造体である骨の廻りを囲った様な建物はその囲った皮が何時か時代の感覚からずれていきます。設備同様そのものとしては機能していても何の脈絡もないただの表層は時代に置き去りにされます。しかも「あの時はこういうの流行ってたんだよね」と言わんばかりの建築は最低を通り越して「惨めさ」さえあります。
最後に「構造」です。構造計画の考え方も人それぞれです。 殆どの場合、構造とはひたすら「意匠」が成立するための裏方、と考えられています。構造計算こそしないものの何回か建築計画をこなしているうちにそこそこの「構造的な感覚」を身につけてくる「意匠」の人達がいます。その人達は柱のサイズ、梁のサイズ、その適正スパンを正確に答えるのが構造の仕事、と考えるています。またそれに応えて裏方に徹する構造計算家。実はその「構造的な感覚をそこそこ身につけた意匠の人」と「構造計算家」は建築設計業界では主流派です。主流派と言うか「慣れた人達」とでも言うか。
建築を構成する要素が、「構造」、「設備」、「意匠」であるとすると、経年変化によって設備が使えなくなり、意匠が陳腐化した時に残るのは構造だけです。その様なまるで剥がれ落ちていく様な「意匠」も「設備」も情けないですが、そこに残された骨だけの「構造」もいただけません。それはもうただ建っているだけです。私達のまわりではそういった事があまりにも軽くとらえられていないでしょうか。
本来建築の構造とは重力をはじめとする様々な自然界の外力に対抗するだけのモノに建築を仕立てるツールです。「意匠」や「設備」を貼り付けておく骨組みではありません。すなわち建築としてその形そのものが自然界に対峙していかなくえてはなりません。その時に構造が意匠を成立させるためのただの骨だとしたらその建築とはもはや完全に商品としての姿を失っていると言えます。
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